■心の時代の到来、そして瞑想??
かつて 故梅棹忠夫氏が、60年以上前に自著で書いておられた内容で、
”文明というのは、まず農業が発展し、人々のお腹が満たされたら、工業が発展し、人々に時間の余裕ができたならば、次の時代は情報の時代が来る。そして心が満たされるための何かが求められる” という事が、現代において現実の物となっています。
ネットが情報化社会をけん引して、そのネットに最近、瞑想 という言葉をちらほら散見されるようになってきたと思います。
■そもそも瞑想とは?
何をもって瞑想かといわれると、一概に定義されていません。
諸説、いろんな考え方や捉え方があって、
単に内面を落ち着いて見直す作業という人もいれば、精神的な心の掃除という人、
神と近づくという宗教表現をする人もいます。
瞑想手法も色々あります。
このように、一つのカテゴリーとしての瞑想という行為を描写するにあたり、
幾多の言葉で表現や定義はできるのですが、いまいち一般的によくわからないなぁと感じられるのが瞑想ではないでしょうか。
■瞑想体験の多様性と言語表現の限界
みんなで瞑想をしたあとの会場の雰囲気は人によって多種多様です。
穏やかな気持ちで自分自身静かにされている人、何かに感動し涙を流している人、非常に快活になった笑顔の人、何事も変化がなかったような人・・・
誰かに何かを促されたわけでもなく、瞑想という共通の行為をしているにもかかわらず、個々に感じる多様性が大きいのが瞑想です。
具体的にどんなことが浮かんだかとか、何を体験したか と聞くと、
空を飛ぶような感じという人もいれば、ただ自分の内側でゆっくりしていたという人もいるし、あらゆる知識と触れ合う感じ…
精神世界ですから、色々なイメージがあり、感想が出てくるは当然です。
ですが残念ながら言語表現には限界があります。
体験 ⇒ 言語表現 の過程には非常に大きな溝があります。
”朝食に赤いリンゴを一つたべた” と
”朝食にリンゴ食べた。そのリンゴは真紅ともいえる赤さで、触ると波動が伝わるようだった”
この2文、行為は同じかもしれませんが、受け手のイメージは違いますよね?
このように同じ瞑想体験をしても、描写表現力豊かな人とそうでない人では、人に伝えることに違いがでるわけです。
したがって、内なる体験を言語表現したとしても、完璧な瞑想事実の表現とは言えないんですよね。
今ネットで、ブログや記事を読んでも私自身、いまいち響いてこないのは多分、
それを書いた人が瞑想体験の表現が下手くそか、あるいは、瞑想体験の深みを体験してないのだろうと思っています。
また、ここで個人体験を書いて、過去にこんな出来事があったのを思い出して、それでこういう行為が出てきて…ってうんちくを並べるのもねぇ…(笑)
では瞑想の良さを中立に表現できないのかってことなんですが、
瞑想会にあった出来事を事実として紹介していくことは一般性を失わず、冷静にレポートできるのではないかと思います。
極力主観を抜いた、いわゆる乾いた文章になったとしても、そのような文章であっても、瞑想に良さや魅力を見出せるような人こそ、瞑想に向いているのではないかなとも思います。
余談だけど、瞑想のイメージ画像ってないかなーってネット見てたら、
実に多様な画像が出てきました。
絶景を前に一人静かに座禅している図、チベットの仏徒が集団で座禅の図、
ブッダの薄目を開けた図…その他色々でてきました。やっぱり瞑想のイメージって多種多様なんだよ・・・まちがいない!
photo by skyseeker