有限無限

雑感、書評、セラピーの事、そして時々工学技術的なことなど…

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本質的な活動を-80年代の部活動を回想して-

中学校時代、とある運動部に入部した。
野球、サッカー、バスケ、、、ほどメジャーではないが、なんだか面白そうなので。
その運動部、私が通っていた学区域では、知る限り3校だけ。
あとの2つは某私立名門進学校A校と、某公立中学校B校。


入部して何をやったか。
1年生は先輩たちが練習するのを眺めながら練習時間の半分以上を声出しで費やした。その後、キャッチボール、最後に整地&後片付けで終了というのものだった。

”・・・なんだこれ??” 子供心にそう思った。

練習というなら、その競技が上手くなるためにするために行うものであろう?
なのに、何のために?その後も同じような部活が続いた。

数か月後、対外試合があった。
Aはうちよりも学力偏差値が15以上高い文武両道校にも拘わらず、1年生からレギュラーメンバーが多数だった。
Bも試合に勝つためにはどうすればいいのかを分析検討し、練習に活かすというものだった。
うちは、まぁ上手と思われた先輩たちで占めるチーム編成であった。
結果的にうちはBにぼろ負け、Aにもかろうじて引き分け。

"・・・なんじゃこれ? この結果はなんなの? "


ABともに、1年生からノビノビと競技上達のための練習をしており、本質的な活動が出来ていると私には映った。
一方、うちはどこまでも表面的、形式的なことにこだわり、目的が曖昧になっていた。

あの光景をみてから、私は幽霊部員になり2度と部活に行かなくなった。


何のために部活をするのか、、、
基礎体力、コミュニケーション能力、目標達成の過程や達成感などを培う 
などといううたい文句があるだろう。

 

”何故それをやるのが練習で、総じて部活動の意義となるのか?” ということを納得させること無しに、ただただ義務的にやらせられたあの経験は、今でもネガティブな記憶に残っている。

徒弟制度や下働き、丁稚など、何かを始める時に底辺からスタート的な制度が日本には伝統的にあるが、本当にこれが今後も通用するのか???
ということも含め、あの頃のことを振り返った初秋。

コエを出すことが重要のは、部活ではなく畜産業じゃ、このボンクラどもが!!
とあの頃のボンクラ顧問たちや先輩たちに言ってやりたい今日この頃です。