有限無限

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風船爆弾

http://www.flickr.com/photos/25925846@N04/7956710308


ここ最近、涼しくなって 秋風が吹いたかのようになっていますが、

よく考えると2週間前はお盆休みでしたね。

  

お盆は長期休暇であるとともに、日本人にとっては終戦を思わせる時期だ。
戦後70年近く経つという。


戦争直後に生まれた赤ん坊ですら、現在70歳ということか…
そう思うと、戦争体験をつぶさに伝える人々など年を追うにつれて
寿命がきて鬼籍に入られていくということだな。。。

終戦当時、女学生が14歳、学徒出陣などの若者でも24歳とすれば、
現在84歳、あるいは94歳ということか…

■深夜のラジオ番組

普段そんな時間にそんな番組を聞く習慣は全くないのだが
お盆休み中、つれづれに、深夜ラジオを聴いていた。


かつて日本軍が開発製造した武器の中に風船爆弾というのがあった。
要するに、爆弾に風船を取り付けて、ジェット気流に乗せて日本からアメリカ本土に向けて飛ばすのである。そして、アメリカ本土上陸したら爆発させるというものだ。
漠然とアメリカ大陸へ向けて飛ばすだけ。目標を決められるわけでもなく、どこにどう飛ぶかも予測つかない、戦争を知らない我々が聞けば、笑ってしまうであろう70年前の武器。

女学生時代に、風船爆弾を作った経験を通じて戦争のことを風化させたくない という思いから色々と講演活動をしている女性がいるという話題であった。

その話が始まる前に私は結論をイメージしたのだった。

こういっては失礼だが、この類の話題の結論は戦争の悲惨さとか、無意味さを伝えるんだろうと思って聞いていた。

 

が、その女性は、製造工程に配属された時のしんどさや作業区内環境の酷さなどをコメントしたものだった。
風船本体を作るときに、糊の代替材料がこんにゃく成分でできており、それを接着するときに手がカブれてしまうだとか、作業時間や作業環境が夏の暑い盛りで、めまいや貧血を起こし、作業現場で倒れる同級生がいたとか、憲兵の見張りが厳しく、製造納期にも厳しかったとか。

そして、原爆をアメリカが作っていた時、日本は風船爆弾を作っていた。国力は比べ物にならなかったんだな・・・という話だ。


ん、、、戦争関係ないやん!!??

 

それって、製造現場の大変さを説明しているのであって、戦争であろうとなかろうと納期を迫られた製造業の人々なら頭をかすめたり、実際に経験されたことがあった出来事じゃないの??? って深夜に普通に目が覚めました(笑)

 

いや、悪く言うつもりはないんです。

というよりむしろ、これは新しい切り口だと思うとともに、戦争体験の語り部が減少してるんだと思ったわけですよ。

昔なら、子供のころ、広島市郊外で入院中、病窓をみてたら強烈な閃光が見えたと思った刹那に、窓ガラスにヒビが入り、布団に入ってた私はガラス破片が刺さらずにすんだけれど、看病してくれていた母の背中には細かい破片が刺さり、それは大変な状況であった。。。

とか、
飛び立つ仲間たちの機体には燃料は片道しか入れてあげられなかった、、あと2部隊順番が早ければ私も特攻隊員として飛び立ち、海の藻屑になっていただろう。
など、面と向かって生々しい話をしてくれる人は、年々減少傾向にあるのをひしひしと感じたわけです。

戦争現場やその被害現場の最前線の語り部から、さらにその下の世代しか語り部が存在していないんだな…ということです。

 

人類がそうやって喉元すぎれば熱さ忘れて、また戦争に駆り立てられて行かないよう初秋に感じるのでありました。

 

photo by StudioTempura