爆弾落ちてくるって分かってるなら、まず逃げればいいのに。
最近・・・というか、イスラエルが建国されてからずっとなのかもしれませんが、
じつに戦闘が絶えることがない状態です。
よくテレビやメディアで取り上げられるイスラエルのガザ地区は、
市街地であっても爆弾テロ、空爆など戦闘地域になっています。
また、パレスチナ難民とその子孫が大半を占めているとのことです。
今日のエントリーは、詳しくあの国の事を分析する意図ではありません。
平たく言えば、あの国は、色んな歴史背景や経緯があってそういうことになっているんでしょう。
国際紛争は、一般人を巻き込まないならば偉い人たちが勝手にやってくれていいのですが、私が感じる問題はそこに住む人たち、一般人のことなんです。
彼らはいつミサイルや爆弾が飛んできてもおかしくないような地域の、
これまた狙われやすそうなところに住んでいます。
しかし、何百年に一度の天災ならばまだしも、かなりの確率で攻撃されるとわかっているのになぜ逃げないのか?
もちろん、彼らの言い分は想像つきます。
”元々自分たちの土地であるのに逃げたり、立去る必要があるのか?”とか
”宗教的な理由で~” とか。。。
ドキュメント番組で伺える彼らの日常は非常に楽しそうで、笑顔と快活な生活の中に、違和感のある銃などの武器。日常と非日常であるべきものがいつの間にか一体化した彼らの日々。
これらを第三者的な報道で見ていると、どう考えても戦闘が日常に取り込まれているわけで、死ぬことも含めて日常化されていますよね。
しかし、死んでしまえば元も子もないっていう視点で考えると、身の安全を考えればそんなところに住まずにとにかく逃げればいいのに…と思うのです。
他人事のように書きましたが、実のところ、
これって、我々の生活や生き方にも多少通じるものがあります。
毎日、このままいけばうまくいかない強烈な閉塞感を感じているくせに、
とりあえず今日も会社行かなきゃ、、、ってな感じで
今までの生き方で通そうとするなんて、まさにそういうことですよ。
”だって、家族を養う手段がなくなるから。”
”今の生活を手放したら、どうなるかわからないから。”
”福利厚生がなくなったりするじゃない??”
たしかにそれもその通り。
しかし、やばいと思えば、いきなり逃げなくても、対策は打たねばなりません。
それでも間に合わないならまず逃げたらいい。
今と少し先を見つめて生きる。
だって、死んだら元も子もないんだもん。
たとえば、1945年8月6日
私たちが未来からタイムトリップして、広島市内のあの日に行ったとして、
市中で、『危ないから逃げろ!今から人類史上最強の爆弾が降ってくるから!!』
って避難を促したらみんな耳を傾けるんだろうか?
あるいは、もし自分があの当時の人間として、そんなことを言う未来人を町で見かけたら、言うことを聞くだろうか???
みなさんはどうおもいます?
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