有限無限

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問題と認識するから問題。その割合の考察

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ブログを読んで頂けてる皆様、お盆休みはいかがでしょうか?

 

仕事のことを何も考えず、解き放たれたここ数日。

紙に落書きしていた時に、ふと考えてみたので書いてみました。

 

”これは大問題です!”とか、”重大な課題”とかいうけど、それって一体何だろう?

 

一般的に言って、人はある出来事や事実に対して、現在あるいは将来において好ましくない状況を起こすものを問題と認識するわけです。

でも、遭遇した人が問題と定義しているだけであって、違う人が問題と定義しないのならそれは問題ではなくなるわけです。


問題というものは、そのように認識されて初めて問題になりえる。
そもそも人が認識しないものは、問題や課題にはならないんですよね。


人生を振り返って、『あの頃は問題だらけだけど楽しかった。』 とかいう老人、よくいますよね。

人生山あり谷ありって言いますけど、願わくば、煩わしい問題が生じない人生であってほしいわけですよ。

そして、その方のご意見や生き方を尊重しつつも、私は申し上げたい。

”あなたの生きた時代と現代では社会構造や課題の質も量も絶対違うと思います!” 

 

では問題ってどんだけ??

先ほども書いたけど、
認識する問題の質も量も個人差があるので、一概に言えない話なんですが、こんな風に考えてみました。

 

f:id:clairvon:20140815095546j:plain

一般的に書かれるXY座標で考察されるこの話。

つまり、問題を認識している/していない × それを解決できる/できない

の4通りの状態が問題をめぐって存在すると思います。
(%は参考に書き入れました。)

 

本来ならば、座標の原点がはるか右下に存在してくれてるのがありがたいと思うのです。

つまり、”問題を認識しつつも解決できる” Aのフィールドが一番大きい状態です。
そうすると、相対的に、BやDの割合も小さくなり、Cの問題を認識していないで解決できない部分が非常に小さくリスクに対して対応しやすい状況でいられるわけです。


しかし、下記のような状態ではどうでしょう??

f:id:clairvon:20140815095556j:plain

成長段階初期の子供や、現代よりも発展していない原始時代の人類はこういう状態ですね。


問題を認識していない、問題を解決できない  そんな状況が必ずしも不幸だったかというと、意外とそうでもないような印象も受けたりなんかして。

また人類が有史以来立ち向かい克服した問題はたくさんあったと思いますが、今の時点でどれくらいなんだろう? という気もしませんか?

 

実際に人類が知りえている状態ってどれくらいなんだろう?って、落書きをしながら思いついたので、このブログを書いてみました。

 

じゃぁ、私の原点の位置はどこらへんでAは何%なんだろう???

そして今、皆さん個人の原点の位置はどこにありますか?

 

あとがき:

現代は情報が多いから問題がどんどん見えすぎる時代になっているんだと思うんですよね。

まるで顕微鏡の倍率が上がるにつれて、今まで大きな細胞レベルの物しか見れなかったのが、どんどん小さいウィルスレベルまで見えるようになったように。

でも、一方で近年価値観の多様化がどんどん進んでいるので、問題として扱わない考え方も存在しています。そういう考え方のほうが実は幸せなのかもしれないなんていうのも考え方として捨ててはいけないのかな、なんて考察してしまいました。

 

あと、この図。

今回は正方形で図を書きましたが、一概にそういう書き方ができると限らないことやもっと不確定な複雑な要素が人生には起こりえるっていうのもわかったうえでエイヤッと思い切って書きました。そこのところの突込みは無しでお願いしますね。(笑)